昔ながらの田舎とそれ以外
ここでいう「昔ながらの田舎」とは、移住者が全人口の1割に満たず、ほとんどの世帯が拡大家族もしくは老人のみで構成されており、同世代の大多数が同じ小中学校・高校で過ごした経験があるような土地のこと。 こういう場所は、村八分という言葉が使えるような土地だ。お互いが監視し合い、噂は飛び交い、一度の失敗を一生引きずってしまう。
さて、現在私は、そういう土地に住んでいると思う。その場所の商工会青年部、あるいはPTAという存在について、考えることがしばしばある。
都市部のPTAでよくお題目とされるのは、「保護者のコミュニケーション」だ。保護者のコミュニケーションというのは、子ども同士が仲が良い場合に、親も仲良くなろうとか、一致団結して子育てしようとか、そういうニュアンスと思う。 移住者が多く、その土地に住む親同士に知古が無く、子どもがどこの子どもか大人がわからない場合、保護者のコミュニケーションは、時折正当化される。それらは親密な組織行動を是とする風潮と一致するし、企業とかでも業務以外の会話を推奨されたりするのと同じで、子育て以外の会話を保護者同士もしましょうねとなる。
また、商工会青年部もほとんどは、経営の悩みを抱えた若き経営者・経営者になる予定の者が、知古が無く、悩みを分かち合えない場合の居場所となるという説明が多いと思う。メリットは、同じ悩みを抱える人が多数いる、横のつながりを作れること。PTAと同じうたい文句だろう。
ここで考えないといけないのは、昔ながらの田舎では、横のつながりは、同級生同学年で、すでにできていることが多い。全員知り合い以上で、兄弟がいれば、XXの兄貴とか、XXの妹とかいう人で満たされるので、上下6年くらいは、だいたい顔と名前は一致する。
家業についても理解があることが多い。あいつの家はずっと車屋さん、板金屋、工務店、土木、材木屋。そういうのも全員が知っている。
このような昔ながらの田舎では、PTAと商工会青年部の存在理由はなんだろうか。1つは責任の所在の明確化だろう。該当する人の集団を代表として決定権を持ち、1人に説明すれば全員に説明できたことにするほうが楽だ。それは上の世代の都合なのだけど、そういう組織化を脈々と続けている。それが存在理由であり、自分たちが希望するものではない。逆に、PTAと商工会青年部を利用して何かアクションを起こそうとすると、「事業化されていない」「総会で承認がとれていない」などと言われる。何かアクションを起こすのに、最低でも2年かかる。泥沼だ。
一部の人たちが勝手にやったことだから認められないとか、一部の人たちがやりたいからやったことだから自費でやるように、という妄言は、役員とか理事とかになった人が決定する組織において、ブーメランに他ならない。国会議員だってそうだ。選挙のときに判断基準を明確にしていたものではない事柄を審議するとき、どうしても選挙人ではなく被選挙人の意見になってしまう。ほとんどの議案がそうだとしても、それらを承認していると言われると心外だなと感じる。実情を踏まえるならが、ある程度任されていると思わざるを得ないと思う。
前置きが長くなったが、先日夏のイベントを1つ増やそうとして、商工会の親会の役員会にて説明をしたのだけど、「自費でやるならよい」と言われた。私は自費でやるのは間違っていると反論したい。
1. 自費で開催した場合、利益が自分に戻らなければおかしい 2. 自費で開催した場合、次の開催時に他のものから認められるのであれば、自費は利子をつけて還ってこなければおかしい。リスク分の負担がある以上、成功時のみ認められるのであれば、相応のハイリターンがないといけない 3. 自費で開催した場合、次の開催時に他のものを巻き込む必要はなぜ存在するのか。巻き込まなくても成功するものを分かち合う必要はあるのか。 4. 失敗したときの責任を費用の面で負っているにも関わらず、失敗評をたき付けてくるのはなぜか。自費で失敗する場合、失敗したという評価を他者が持つのはおかしい
などと、いろいろ思うところはあるが、私個人的には、公共の行事(夏祭りのような、自分の事業に還元できないような行事)を自己負担でやる場合、一番のデメリットは、自己負担で行うように提案した発言者自身が公共の行事をしようとするときに、必ず「自己負担でやれよ」と言わないといけなくなる点だ。
これが諸刃の剣であることは自明の理で、「自己負担でやれ」というのは、成功も失敗も分配する必要が無いといいうこととイコールであると思われる。
自己負担でやって、結果は地域や村に分配せよということだったら、自己負担は地域や村がしなければならない。それが個のアイディアであったとしても、受益者が考えて、律しなければならないと思う。
ここでいう「昔ながらの田舎」とは、移住者が全人口の1割に満たず、ほとんどの世帯が拡大家族もしくは老人のみで構成されており、同世代の大多数が同じ小中学校・高校で過ごした経験があるような土地のこと。 こういう場所は、村八分という言葉が使えるような土地だ。お互いが監視し合い、噂は飛び交い、一度の失敗を一生引きずってしまう。
さて、現在私は、そういう土地に住んでいると思う。その場所の商工会青年部、あるいはPTAという存在について、考えることがしばしばある。
都市部のPTAでよくお題目とされるのは、「保護者のコミュニケーション」だ。保護者のコミュニケーションというのは、子ども同士が仲が良い場合に、親も仲良くなろうとか、一致団結して子育てしようとか、そういうニュアンスと思う。 移住者が多く、その土地に住む親同士に知古が無く、子どもがどこの子どもか大人がわからない場合、保護者のコミュニケーションは、時折正当化される。それらは親密な組織行動を是とする風潮と一致するし、企業とかでも業務以外の会話を推奨されたりするのと同じで、子育て以外の会話を保護者同士もしましょうねとなる。
また、商工会青年部もほとんどは、経営の悩みを抱えた若き経営者・経営者になる予定の者が、知古が無く、悩みを分かち合えない場合の居場所となるという説明が多いと思う。メリットは、同じ悩みを抱える人が多数いる、横のつながりを作れること。PTAと同じうたい文句だろう。
ここで考えないといけないのは、昔ながらの田舎では、横のつながりは、同級生同学年で、すでにできていることが多い。全員知り合い以上で、兄弟がいれば、XXの兄貴とか、XXの妹とかいう人で満たされるので、上下6年くらいは、だいたい顔と名前は一致する。
家業についても理解があることが多い。あいつの家はずっと車屋さん、板金屋、工務店、土木、材木屋。そういうのも全員が知っている。
このような昔ながらの田舎では、PTAと商工会青年部の存在理由はなんだろうか。1つは責任の所在の明確化だろう。該当する人の集団を代表として決定権を持ち、1人に説明すれば全員に説明できたことにするほうが楽だ。それは上の世代の都合なのだけど、そういう組織化を脈々と続けている。それが存在理由であり、自分たちが希望するものではない。逆に、PTAと商工会青年部を利用して何かアクションを起こそうとすると、「事業化されていない」「総会で承認がとれていない」などと言われる。何かアクションを起こすのに、最低でも2年かかる。泥沼だ。
一部の人たちが勝手にやったことだから認められないとか、一部の人たちがやりたいからやったことだから自費でやるように、という妄言は、役員とか理事とかになった人が決定する組織において、ブーメランに他ならない。国会議員だってそうだ。選挙のときに判断基準を明確にしていたものではない事柄を審議するとき、どうしても選挙人ではなく被選挙人の意見になってしまう。ほとんどの議案がそうだとしても、それらを承認していると言われると心外だなと感じる。実情を踏まえるならが、ある程度任されていると思わざるを得ないと思う。
前置きが長くなったが、先日夏のイベントを1つ増やそうとして、商工会の親会の役員会にて説明をしたのだけど、「自費でやるならよい」と言われた。私は自費でやるのは間違っていると反論したい。
1. 自費で開催した場合、利益が自分に戻らなければおかしい 2. 自費で開催した場合、次の開催時に他のものから認められるのであれば、自費は利子をつけて還ってこなければおかしい。リスク分の負担がある以上、成功時のみ認められるのであれば、相応のハイリターンがないといけない 3. 自費で開催した場合、次の開催時に他のものを巻き込む必要はなぜ存在するのか。巻き込まなくても成功するものを分かち合う必要はあるのか。 4. 失敗したときの責任を費用の面で負っているにも関わらず、失敗評をたき付けてくるのはなぜか。自費で失敗する場合、失敗したという評価を他者が持つのはおかしい
などと、いろいろ思うところはあるが、私個人的には、公共の行事(夏祭りのような、自分の事業に還元できないような行事)を自己負担でやる場合、一番のデメリットは、自己負担で行うように提案した発言者自身が公共の行事をしようとするときに、必ず「自己負担でやれよ」と言わないといけなくなる点だ。
これが諸刃の剣であることは自明の理で、「自己負担でやれ」というのは、成功も失敗も分配する必要が無いといいうこととイコールであると思われる。
自己負担でやって、結果は地域や村に分配せよということだったら、自己負担は地域や村がしなければならない。それが個のアイディアであったとしても、受益者が考えて、律しなければならないと思う。
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